生まれつき病気のあるお子さんの成長や日常生活について知ることができます。お子さんやご家族の状況に応じて受けられるさまざまな支援について紹介しています。
疾患について
これから生まれてくる、あるいは生まれてきたお子さんに、生まれつきの病気や障害があるとわかると、ショックを受けるお父さん、お母さんもいらっしゃるでしょう。しかし、病気や障害があったとしても、お子さんの誕生は喜ばしいことです。
一方で、「この先、どうなっていくのだろう」、「自分に育てられるのか」といった不安もあるかもしれません。しかし、その不安はお子さんの病気や障害、成育について「よく知らない、わからない」ことからくるかもしれません。
まずは、正しい知識を持つことが大切です。生まれつきの病気や障害があるからといってお子さんが何もわからなかったり、何もできない状態ではないことを知っておいていただきたいと思います。
生まれつきの病気について
赤ちゃんの3~5%は、何らかの先天性疾患(生まれつきの病気)を持って生まれます。そのうちの25%が染色体の変化による染色体疾患です。NIPTの対象である 3つの染色体疾患(13トリソミー、18トリソミー、21トリソミー)と、その合併症として頻度の高い先天性心疾患について解説します。
13トリソミー(パトウ症候群 )
13番染色体が通常よりも1本多くなっていることから起こります。脳や心臓などの病気がある場合も多く、症状の程度によって出生後の早い時期に亡くなることがあります。そのため、1歳まで生きられるお子さんは10%未満とされてきましたが、近年では新生児集中治療や外科手術などにより寿命が延びていると報告されています 1)。
からだの特徴 | 呼吸の不安定さ、栄養摂取の課題 |
---|---|
起こりやすい症状 | 先天性⼼疾患、脳の形態(全前脳胞症)、⼝唇⼝蓋裂、けいれん など |
生活面 | 成⻑発達はごくゆっくりであることが特徴です。 多くのお⼦さんは、呼吸や栄養⾯で医療的ケアなどのサポートを得ながら、⽣活を送ります。 発達の過程で、サイン⾔語の習得や表情でのコミュニケーションを図ることができます。 |
18トリソミー(エドワーズ症候群)
18番染色体が通常よりも1本多くなっていることから起こります。心臓や呼吸器、脳などの病気がある場合も多く、成長するなかで小児がんを発症することもあるという報告もあります 2)。生まれた後の環境に順応することが難しく、長く生きられないお子さんがいる一方で、新生児集中治療や心臓手術、食道閉鎖手術などにより寿命が延びてきています 3)。
からだの特徴 | 体つきが⼩さい(胎児期より) 呼吸の不安定さ、栄養摂取の課題 |
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起こりやすい症状 | 先天性⼼疾患、脳の形態(⼩脳低形成)、消化管疾患(⾷道閉鎖、鎖肛)、関節拘縮、腹部腫瘍 など |
生活面 | 成⻑発達はごくゆっくりであることが特徴です。 多くのお⼦さんは、呼吸や栄養⾯で医療的ケアなどのサポートを得ながら、⽣活を送ります。 発達の過程で、サイン⾔語の習得や表情でのコミュニケーションを図ることができます。 |
21トリソミー(ダウン症候群)
21番染色体が通常よりも1本多くなっていることから起こります。生まれつき心臓などの病気がある場合も多いのですが、医学の進歩により、現在では21トリソミー(ダウン症候群)の方の平均寿命は約60歳ともいわれています 4)。成長のなかで、起こりやすい症状については定期的な健康管理が大切です。最初に症状について報告したダウン医師の名前が由来となり、ダウン症候群と呼ばれています。
からだの特徴 | ゆっくり成⻑ やわらかい体つき |
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起こりやすい症状 | 先天性⼼疾患、消化管疾患、甲状腺疾患、先天性難聴、中⽿炎、眼疾患(近視・遠視、⽩内障) など |
生活面 | 運動発達は、療育⽀援を受けながら時間をかけ習得します。 表現⼒は豊かな⽅が多く、⾔語やサインを⽤いてコミュニケーションを図ることができます。 多くの方は様々なサポートを活用して通学や就労をしています。 |
先天性心疾患 (心臓の病気)
13トリソミー、18トリソミー、21トリソミー(ダウン症候群)の合併症の中で、比較的頻度が高いのが心臓の病気です。心臓の病気というと心配になるかもしれませんが、近年では手術技術の進歩によって赤ちゃんへの難しい心臓手術が可能になり、特に21トリソミー(ダウン症候群)に合併する先天性心疾患の大部分は治療できるようになりました。13トリソミー、18トリソミーに関しても、ご家族とよく話し合ったうえで手術を行うお子さんも増えてきました。
心臓の病気にも心室中隔欠損、動脈管開存、心房中隔欠損など さまざまな種類があり、生まれてすぐに心臓手術をすることもあれば、成長を待ってから手術をすることもあります。
成長・発達について
染色体疾患のあるお子さんには運動面や知能面の発達に遅れがみられることがありますが、多くのお子さんは成長と共にゆっくりと発達していきます。こどもの成長・発達に個人差があるのは、障害があってもなくても同じです。病気の種類や障害の程度にもよりますが、必要な医療やケア、支援を受けながら学校に通い、大人になって働いたり、趣味を楽しんだりと自分らしく充実した毎日を送っている方もたくさんおられます。また、笑ったり泣いたりとご家族に自分の気持ちを伝えたり、きょうだいと共に楽しく遊んだりしています。
日本ダウン症協会、18トリソミーの会では、それぞれ専用の母子手帳を作成 ・配布しています。成長が比較的ゆっくりなお子さんに合わせて作成された成長曲線や医療・子育て情報が掲載されており、成長の過程がイメージしやすいと思います 。また、13トリソミーに関しては、米国のサポートグループSOFT(Support Organization for Trisomy 18, 13, and Trisomy Related Disorders)が、成長曲線を作成しウェブサイトで公開しています。
出典:
1) | 片岡功一:Ped Cardiol Card Surg 2020; 36: 3‒15 |
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2) | Satgé D et al.:A tumor profile in Edwards syndrome (trisomy 18). Am J Med Genet C Semin Med Genet 2016 172(3):296-306. |
3) | Kosho T et al.:Natural History and Parental Experience of Children With Trisomy 18 Based on a Questionnaire Given to a Japanese Trisomy 18 Parental Support Group. Am J Med Genet 2013 Part A 161A:1531–1542. |
4) | Amy Y. Tsou et al.:JAMA, 2020;324(15):1543-1556 |
出産後に受けられる
主な支援
育児が始まると、生活のことやお金のことなど「困りごと」が出てくるかもしれません。日本には病気や障害のあるお子さんとご家族の生活をサポートする、さまざまな制度や福祉サービスがありますので、ご家族だけで悩まずに、積極的に病院や自治体の窓口に相談するようにしましょう。
どうすれば必要な医療や支援を受けられるの?
出産前から赤ちゃんの病気や障害が把握できていると、出産後すぐに病状に応じた治療が始まり、そのまま必要な支援を受けたり、看護師や医師から情報を共有されたりします。一方で、出産直後に異常がみられなくても、健診などで病気や障害が見つかることもあります。その場合も必要な医療や支援を受けることができますので、相談するようにしましょう。相談の窓口は、福祉専用の窓口と医療専用の窓口などがあり、自治体によって異なります。病院によっては、どこに問い合わせるべきなのか相談する窓口があることもあります。
経済的な支援にはどのようなものがあるの?
「病気や障害のある子を育てるにはお金がかかる」と思っている方も多いのではないでしょうか。たしかにお金が必要になる場面はありますが、実際には、さまざまな経済的なサポートが用意されています。医療費の一部を自治体が負担する「医療費助成」や、毎月決まった金額が支給される「手当」などです。お住まいの自治体やお子さんの年齢、所得金額などによって受けられる支援やサービスが変わることもありますので、どのような制度があり具体的にはどのような支援を受けられるのか、相談窓口で確認するようにしましょう。
制度や支援 | 内容 |
---|---|
医療費助成 | 乳幼児・児童を対象とした医療費の助成制度で、自治体によって対象年齢は異なりますが、医療費や薬剤費が無料になります。一部自己負担や所得制限がある場合もあります。 入院中のオムツ・ミルク代や、入院・通院時の交通費などは自己負担となります。 |
心身障害者医療費助成 | 障害のある方を対象とした医療費の助成制度で、保険診療を受ける際の自己負担額の一部が助成されます。助成額は自治体によって異なります。 |
特別児童扶養手当 障害児福祉手当 特別障害者手当 |
障害のあるお子さんや保護者を対象とした手当で、手当の受給は障害の状態によります。 |
身体障害者手帳 療育手帳 |
身体障害者手帳や療育手帳を取得することで、社会の支援やサービスを受けることができます。例えば、一定の金額の所得税や住民税の軽減、自動車税の減税、公共交通機関での運賃割引などが受けられることがあります。 |
育児をしながら仕事を続けられる?
子育てをしながら仕事を続けられるよう、さまざまなサポート体制があります。ご自身を含むご家族のニーズに合ったサービスをうまく活用していきましょう。
保育園・こども園 | インクルージョン推進のもと、0歳児から保育園・こども園に通う事ができ、保護者も働くことができるようになってきています。入園するには事前の相談が必要です。 |
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児童発達支援センター | 発達に⼼配のあるお子さんが通う場所です。お子さんと一緒に通園する親子通園や、お子さんだけ通園する単独通園があります。施設には、保育⼠のほかに⾔語聴覚⼠や作業療法⼠、看護師などがいるため、専⾨的な支援を受けることができます。相談対応など家族への支援も行っています。幼稚園や保育園に通っていても利用することができます。 |
放課後児童クラブ(学童保育) | 仕事などで保護者が昼間家庭にいない小学生を、放課後や土曜日・日曜日、夏休みなどの学校休業日に預かってくれる場所です 。障害のあるお子さんを受け入れているクラブも増えています。 小学校や児童館などで活動しており、事前の登録が必要です。 |
放課後等デイサービス | 障害のあるお子さんや発達に特性のあるお子さんが放課後や学校休業日に利用できる通所型の福祉サービスです。6~18歳のお子さんを対象に、社会生活や学習面などで必要なスキルを身に付けられるよう支援します。ご家族との相談や懇談も行っています。送迎サービスを実施している施設もあります。 |
障害のあるお子さんの暮らし
(13トリソミー)
障害のある・なしにかかわらず、お子さんは一人ひとり、さまざまな個性があります。ライフステージに応じてさまざまな福祉サービスや社会資源を活用しながら、お子さんがいきいきと自分らしく生活ができることを目標に、焦らずに育てていきましょう。本コンテンツでは、13トリソミーのあるお子さんとご家族の暮らしや、それぞれの思いについて紹介しています。
MOVIE
「6歳 女の子」
「9歳 女の子」
「5歳 女の子」
「フォトライブラリー」
※映像の二次利用はお控えください。
令和5年度 こども家庭庁 出生前検査認証制度等啓発事業
ドキュメンタリー「13トリソミーのある人の暮らし」制作協力一覧
音楽 日向 敏文 / 撮影 佐藤 力 / 編集・整音 河村 吉信
ディレクター 長谷川 玲子 / 演出 松田恵子 / プロデューサー 河村 正敏
制作 セイビン映像研究所
協力 13トリソミーのこどもを支援する親の会 / PROJECT13 / NPO法人 親子の未来を支える会
事業アドバイザー 西山 深雪(認定遺伝カウンセラー® )
コーディネーター 水戸川 真由美(NPO法人 親子の未来を支える会)
事業企画・運営 株式会社PDnavi / 株式会社オズマピーアール
宏江さん・壽音(じゅの)さん(13歳)
壽音さんは令和5(2023)年に13歳 になりました。生まれたときから母親の宏江さんと二人で暮らしています。宏江さんは妊娠中にお子さんに障害がある可能性を告げられ、「命さえ無事であれば」と誕生を待ち望んで出産を迎えました。また重い障害のある子を育てていく過程で体験した困難や孤独をきっかけに、重症心身障害児・医療的ケア児のデイサービスを立ち上げ、現在2施設を運営しています。
特別支援学校に通い在宅サービスを利用して自宅で過ごす日常
宏江さん:
「ショッピングモールで、私の服を見ているときと壽音ちゃんの服を見ているときだと、あからさまに態度が違うんですよ。こども服のコーナーに行くと表情がキラーンとして、本当に楽しそうにしてます」
壽音さんの生活は朝、スクールバスのお迎えで特別支援学校に通うところから始まります。学校が終わると自宅に帰り、訪問看護、リハビリ、ヘルパーの支援を受けながら宏江さんの帰りを待つというスタイル。在宅サービスが入らない日にデイサービスを利用しています。
壽音さんは自分の気持ちを言葉で表現することはできません。冒頭のエピソードもしかり、一緒に過ごしているといろいろな感情が伝わってきて心の成長を感じる場面も増えてきたと宏江さんは言います。
宏江さん:
「私の運営するデイサービスでは壽音ちゃんはどうしても気を遣ってしまうみたいで、私が他のお子さんと関わって忙しそうだから向こうで日なたぼっこでもしていようかな、という感じですっと窓際に行ってみたりして、ああ、気を遣ってるなというのがわかるんです。気を遣わせるのもよくないなと、他の施設も利用するようにしてるんですよ」
出産前に障害の可能性がわかり
「どうしてもこの子に会いたい」と誕生を待ち望む
宏江さんは妊娠7か月目の検診で、医師から発育不全を指摘され、即入院となりました。
宏江さん:
「病院で『出産できるかどうかは赤ちゃんの生命力次第だよ』と告げられました。そのとき私は、どうしてもうちの子に会いたい、なんとか生まれてきてほしいという気持ちのほうが強くて。生まれてきた壽音ちゃんの身体はとても小さかったですが、私は力強さを感じて、一緒に生きていこう、とだけ思いました。障害や病気の可能性はいったん忘れて、誕生の喜びのほうが大きかったです。13年経った今もその気持ちは変わらないですね」
社会資源はどんどん活用。素直に助けてと言って繋がる
出産後、退院までは10か月を要しました。その後保育士資格取得を目指すも、当時は重症心身障害児の保育を受け入れてくれる場所はほとんどないことを痛感します。このときに経験した孤独が、宏江さんにとっては重症心身障害児・医療的ケア児のデイサービスを立ち上げる大きな動機になりました。
宏江さん:
「この先万一自分が倒れたときのことを真っ先に考えて、社会資源はどんどん活用していこうと働きかけてきました。保育園やデイサービスも、最初はほとんど利用を断られましたが、自分の立場をきちんと話して、素直に助けてくださいと伝えて繋がっていったんです。今は自分自身がデイサービスを運営している立場ですが、その頃に自分が抱いた思いやできごとは運営する上での強みになっていますね」
デイサービスへの通所を経てこどもたちが得ること
宏江さんは2施設のデイサービスを運営し代表を務められています。
施設には重い心身の障害を持つ子もいれば、気管切開のみで走ったり遊んだりしている子もいます。多様なこどもたちが同じ時間をともに過ごすことで、こどもたち同士でも互いに影響を与え合い、それぞれの発達を見せてくれることは、宏江さんにとっても嬉しく感じることだといいます。
宏江さん:
「例えば一日の体調の変化でどうしてもイライラして周りにあたってしまう子がいても、『◯◯ちゃんは調子が悪いんだね』と理解できます。こどもながらに、僕も私も障害があって、配慮が必要な部分があるということを認め合っているのかなと思います。ともに成長する相乗効果もあれば、ぶつかることもあるのはどんなこどもも変わらなくって。様々な障害のあるこどもたちが一緒に過ごせる環境はまだ少ないから、私たちのデイサービスでそういう時間を過ごしてもらえたらなと思います」
落ち込むときはとことん落ち込む。
不安が大きいほど達成したときの喜びは大きい
壽音さんが生まれてからもさまざまな人と繋がりを積極的に持ち、デイサービス開所など精力的に活動されている宏江さん。その中で幾度も訪れたであろう不安や困難をどのように乗り越えてこられたのか聞いてみると、少し予想外の答えを聞くことができました。
宏江さん:
「私、けっこうネガティブなんですよ。でも落ち込むときは開き直って、どん底まで落ち込むことにしてます。ダメな日、何もできない日や時間があっていい。それで少し前向きになってきたら、思い切って出かけたり、レスパイトを利用して自分の時間を楽しんだりしています。さまざまな施設やサービスを利用することで、自分自身の息抜きや楽しむ時間も持てるようになったことは大きいです。その辺は普通のお母さんと変わりませんね。
こどもと一緒に過ごすにも、イチゴ狩りに行く、温泉に行くなど、ハードル高いと思ってしまいますよね。でもいったん実行してしまえば、『できた!』という達成感はものすごく大きいです。不安が大きいほど達成したときの喜びも大きいから、それを体験してほしいと思います」
佳奈子さん・楓介さん(13歳)
楓介さんは令和5年(2023)年に特別支援学校の中等部に進学し、13歳を迎えました。母親の佳奈子さんと父親との3人で暮らしています。楓介さんは生まれた後に13トリソミーがあることがわかり、ご両親は大きなショックを受けながらも、ありのままの楓介さんを受け入れ、一人の愛しいこどもとして育ててきました。
小学部卒業記念に、6年間の頑張りに思いを馳せて作った晴れ着
佳奈子さん:
「卒業のお祝いに、楓介に手作りで晴れ着を作ったんです。小学部卒業を迎えることができる、その重大さを思うと、親として少しでも楓介の6年間の頑張りに応えたい、記念すべき晴れ舞台に華を添えたいなという気持ちが湧いてきて」
晴れ着を着せてあげたいという佳奈子さんの声を聞き、仲間が協力を申し出てくれました。同級生の男の子2人の親御さんも手を挙げ、3人揃って晴れ着で卒業式に出ようと、みんなで集まってそれぞれの晴れ着を作り上げたそうです。そういった他の親御さんのご協力や交流は佳奈子さんにとって嬉しく、そして楽しいものでした。
佳奈子さん:
「ここ間違えた!とか、みんなであれこれ言いながら作るのも楽しかったですし、それを楓介に着せられたときの喜びも忘れられません。ここまで育ってきてくれたお祝いを盛大にできてよかったなと思っています」
出産後に13トリソミーが判明
子を可愛がる夫の姿を見て受け入れの第一歩が始まる
楓介さんに13トリソミーという染色体異常があることがわかったのは、出産後のことでした。出産予定日まであと1か月ほどという時に体調が急変し緊急入院、帝王切開で出産することに。出生後の検査で13トリソミーの診断を受けました。
突然訪れた状況に、佳奈子さんは茫然自失として、事実をなかなか受け止められませんでした。その心情が少し変わったのは、NICUにお見舞いに来た夫の姿を見てからだといいます。
佳奈子さん:
「帝王切開だったので2日間はベッドに寝たきりで、その間赤ちゃんには会っていませんでした。3日目、自分一人では自信がなくて、見舞いに来た夫を待って一緒にNICUに行きました。その時点で、夫はすでに3日前から楓介に会っていたからすでに私よりも慣れていたんです。『かわいい、かわいい』と言って、抱っこさせてもらっていて。夫のその姿を見て、この子は本当に私たちの子なんだな、と思うことができました。それが受け入れの第一歩だったかなと、今になってみれば思います」
「目の前の楓介だけ見て育てる」と決めた2年間
出産を迎えてから約2年間、佳奈子さんは13トリソミーについてほとんど情報収集をせずに過ごしました。13トリソミーの告知を受けた時点で、さまざまな情報が入ってきて「これ以上ネガティブな情報を受け止める余裕は、私にはない」と考えたのだそうです。
佳奈子さん:
「調べていろいろなことを知っても、それがこの子に当てはまるかどうかはわからない。一喜一憂して心がざわざわするよりも、目の前の楓介だけを見て育てていけばいいと思って、何も調べないことにしました」
容態が不安定だったこともあり、ほとんど家に籠もって暮らしていたという楓介さん。その生活に変化が出始めたのは2歳になった頃でした。成長して体調が安定してきたことから必要な手術の検討も始まり、それを機に、楓介さんの役に立つなら13トリソミーのことを調べてみようと佳奈子さんの気持ちが変わったのです。そこで見たのは、手術を乗り越えて過ごす年長のこどもたちの姿でした。
佳奈子さん:
「手術に踏み切る勇気になり、新しいことにチャレンジしてみようかなと思えるきっかけにもなったんです。私は情報に触れるタイミングがちょっと遅かったとは思いますが、自分なりにベストのタイミングだったなと思っています。13トリソミーだと出産後に知ったことについても、私にとってはそれでよかったと思っています。知らなかったことで出産後、何の準備もなく対峙することになってしまいましたが、その代わり妊婦生活は100%楽しむことができたんですよね。いろいろな情報をどう受け止めるのか、どのタイミングで受け止めるのかは、無理はせず自分のペースでいいんじゃないかなと思います」
外に出て初めて知った、仲間との繋がりの大切さ
楓介さんと一緒に外に出るようになって、最も大きな変化は「仲間ができた」ことでした。2歳を機に通い始めた療育センター、そしてそれ以降に出会っていく親同士の繋がりは、佳奈子さんにとってとても大切なものになったといいます。
「医療的ケア児だけれど自由に動ける子もいれば、肢体が不自由な子もいて、障害は違えど、みんな通る道は一緒、悩むことも一緒。会おうと思えば毎日顔を合わせられる仲間が学校にできたのは、とても大きいですね」
小学部卒業で晴れ着を着せてあげたいという佳奈子さんの背中を押したのも、協力するよと言ってくれた仲間、一緒に作ろうと乗ってくれた仲間でした。そういった親御さん同士の交流がとても楽しいそうです。
また、今は若い世代を中心に、13トリソミーのお子さんを持つ方同士がSNSで交流をすることも増えてきているそうです。佳奈子さんも、楓介さんが10歳のときにSNSのアカウントを作り、楓介さんの普段の生活の様子を発信するようになりました。
佳奈子さん:
「SNSだと、楓介よりもずっと小さいお子さんが多い印象ですね。みなさんに、13トリソミーだけど10歳を迎えられて、元気に過ごしている様子を見せたいなって思い立ったんです。私がかつて、13トリソミーの子たちが成長している様子を見て勇気づけられたように、悩んでいることがあるとしたら、今のあなたのままでいいんだよ、って伝えてあげたいですね」
障害のあるお子さんの暮らし
(18トリソミー)
障害のある・なしにかかわらず、お子さんは一人ひとり、さまざまな個性があります。ライフステージに応じてさまざまな福祉サービスや社会資源を活用しながら、お子さんがいきいきと自分らしく生活ができることを目標に、焦らずに育てていきましょう。本コンテンツでは、18トリソミーのあるお子さんとご家族の暮らしや、それぞれの思いについて紹介しています。
MOVIE
「1歳 女の子」
「4歳 女の子」
「13歳 女の子」
「フォトライブラリー」
※映像の二次利用はお控えください。
令和5年度 こども家庭庁 出生前検査認証制度等啓発事業
ドキュメンタリー「18トリソミーのある人の暮らし」制作協力一覧
音楽 日向 敏文 / 撮影 佐藤 力 / 編集・整音 河村 吉信
ディレクター 長谷川 玲子 / 演出 松田 恵子 / プロデューサー 河村 正敏
制作 セイビン映像研究所
協力 18トリソミーの会 / Team18 / NPO法人 親子の未来を支える会
事業アドバイザー 西山 深雪(認定遺伝カウンセラー®)
コーディネーター 水戸川 真由美(NPO法人 親子の未来を支える会)
事業企画・運営 株式会社PDnavi / 株式会社オズマピーアール
太一さん・心咲さん(12歳)
心咲さんは令和5(2023)年に12歳になりました。父親の太一さんと母親、そして3人の妹の6人家族です。妊娠36 週で18トリソミーがあると告知を受け、大きな不安を抱えながらも、生まれてくる子のためにできるだけの準備をして迎えました。そして12年にわたり心咲さんの成長を支えながら、写真展を主催するなど、18トリソミーのある子をとりまく多様な家族の形を伝える活動にも取り組んでいます。
心咲さんは家族の気持ちを落ち着かせてくれる存在
太一さん:
「心咲はなんだか、僕らの心を落ち着かせてくれる存在なんですよ。妹たちは僕らから叱られたりすると、そっと心咲のそばに行ってるのをよく見ます。僕も仕事から帰ってきたらまず、夕飯前に心咲のところに行って、はあって一息ついてのんびりしてます」
心咲さんは、4歳下、そして2歳下(双子)の妹の4人きょうだい、そして両親の6人家族で賑やかに暮らしています。特別支援学校にスクールバスで通い、デイサービスや訪問看護、訪問介護も利用しながら生活しています。
もともとアクティブな性格の太一さんは、心咲さんの体調も見ながら積極的に外に出かけ、プールに行くなど運動も行っています。これまで2回、心咲さんと2人でアメリカ、カナダへの旅行も実行しました。
太一さん:
「僕がじっとしていられないタイプなんで(笑)。もっと小さいときは、しょっちゅう心咲と2人で電車に乗ってお出かけしてましたね。プールもずっと僕が一緒に行っていたんですが、学校に入ってからはプールの授業もあったりして。 年齢を重ねていくにつれ、家族以外と関わる時間も増えてきたことはいいことだと思っています」
はっきり告知を受けたところが、親としての時間のスタート
心咲さんに18トリソミーの染色体異常があることを知らされたのは、太一さんの妻が妊娠36週の時でした。
太一さん:
「医師には『お腹の中で亡くなってしまう可能性もある』とはっきり言われました。想像もしていなかったことで動揺しましたし、両親の反応からも諦めが見受けられました。でも私たち夫婦はどうしてもそうは思えなくて。心臓の手術などもできる東京の病院に転院させてもらうことにしました」
37週で東京の病院に転院し、それから40週6日を待って出産。ぎりぎりまでお腹の中で大きくなるのを待つという判断をはじめ、18トリソミーの子が生まれてくるからにはそのための準備をしっかりしよう、という病院のスタンスに救われたといいます。
太一さん:
「でも、今考えてみれば、最初に言われた言葉がオブラートに包まれていたら、もしかしたら違う選択をしたかもしれません。リアルな言葉で告げられたことで、自分たちは産まれることを考えたい、そして産まれた後のことを考えたら今どうすればいいか、と考え進めることができました。それが“親としての時間”のスタートだったんですね。郷里の病院の先生方には、東京の病院に繋ぐ最後の最後までサポートしていただき感謝しています。心咲が大きくなってから挨拶にも行きました。
身近で相談できる人は家族、そして病院の先生や看護師さんだけでした。心が動揺している中では、やはり身近にいる医療者の方から、その先のことを示してもらえると次の準備を考えやすいことは実感しました。僕たちのような家族は、医療者の方から18トリソミーについてわかりやすくまとめられていたり、相談先が示されているようなサイトなどを教えてもらえたら、助けになると思います。」
18トリソミーのある子と家族の幸せな時間を伝える写真展
太一さんは、18トリソミーのあるお子さんとその家族を支援する団体の代表を務めています。ご家族から写真を募り、各開催地在住のご家族が中心となって18トリソミーのお子さんたちの写真展を開催する活動です。これまで全国30カ所以上で展示を実施してきました。
太一さん:
「もともとは2008年に前の代表が5人程度で始めた小さなグループで、僕が2013年に引き継ぎました。18トリソミーで生まれてきたこどもやそのご家族はすごく大変な人生を送っているだろうと想像する方が多いと思います。でもそういう厳しいところだけじゃなくて、家族の楽しい時間や幸せな時間、ポジティブな気持ちがこんなにあるんだよということを、写真展を通じて伝えていきたいんです。
もともとは『こどもたちのお披露目会』をしたいという気持ちから始まったと聞いていますが、今もその思いは変わっていないですね」
また、この展示は、訪れた人の繋がりをつくる機会にもなっていると太一さんはいいます。同じ18トリソミーのある子のご家族同士が語り合うこと。これから出産を迎える人が、18トリソミーのことを知りたいと話を聞きにくること。立ち寄った方が、同じ地域に多様なこどもが暮らしていると知ること。病院の先生やサポートするスタッフの方々にも、生まれたこどもたちのその後の成長した姿や家族のありさまを見てもらうこと。18トリソミーのこどもを取り巻くさまざまな人の繋がりが、ここで生まれています。
太一さん:
「写真展で展示した写真をもとに写真集も出版しました。こうやって形に残していくことは、全国、世界にいる18トリソミーのある子と家族が繋がっているという証明にもなると思うんです。
人が命を育む限り、これからも心咲と同じように生まれてくるこどもは当然いなくなることはありません。だからこそ、形を残していく活動を継続することで、将来その人たちにも、こんな風に家族に愛されて生きている、生きた子たちがいるよという姿を伝えていくことが大事なのかなと考えています」
俊輔さん・希(のぞみ)さん
希さんは2012年3月に生まれました。妊娠7カ月のときに18トリソミーの確定診断を受け、生まれてくる子に対して最大限の準備を整えて出産を迎えました。希さんは出生33分後に息を引き取りました。その3年後に長女を迎えましたが、ご一家は今も希さんとともに家族の時間を重ねています。
妊娠7カ月で18トリソミーの診断。最大限の準備をして誕生を迎えた
俊輔さん:
「今年、十三回忌を迎えます。そう思うとずいぶん経ちましたね。小さな体のあたたかさや甘いようなにおい、昨日のことのように憶えていることもたくさんあります」
俊輔さんの長男・希さんは、お腹の中にいるときに18トリソミーの染色体異常があると診断を受けました。妻の妊娠7カ月の頃、発育不良やいくつかの所見を指摘され、超音波検査などで18トリソミーの可能性がわかりました。その後羊水検査での確定診断を経て、誕生を待つことになりました。
俊輔さん:
「羊水検査は侵襲性もありますから、受けるかどうかは妻そして医療スタッフの方々と慎重に話し合って決めました。受検を決めたのは、生まれてからの体制を万全に整えるためです。18トリソミーの子は生まれてみるまでどんな状態にあるかわからない部分が大きいです。それに対して最大限手を尽くせる状態で迎えたい、そのためには確定診断が出ているほうが医療的な処置も受けやすいからです。もちろんこれは私たちの場合の思いであって、どのような選択をするかはこどもの状態や家族、医療者の体制などによってそれぞれだと思います。
お世話になった病院では、あらゆる出産と同じように、希の誕生を心から祝ってもらいました。いろんな場面で柔軟に対応もしていただき、ありがたかったですね」
出産は経膣分娩を選択。生まれたらすぐに我が子を抱っこしてあげたい、という妻の希望に沿ったものでした。18トリソミーのある子の出産は帝王切開になることが多いですが、これも担当医と話し合って決めました。希望通りに生まれてすぐ、希さんは母の胸に抱かれ、そして33分間の”生”を生きました。
父親として夫として、嬉しさも楽しさも動揺も妻と共有して過ごす
18トリソミーの診断を受けてから3カ月弱、妻とともに子の誕生を待った俊輔さん。父親として、また夫として、子の誕生を待つ嬉しさや楽しさも、動揺する気持ちも妻には率直に見せながら過ごしていたといいます。
俊輔さん:
「私が感じたのは、十月十日といいますが、お腹の中でこどもが生きていることを実感している妻と私とでは、どうしてもこどもとの関係性は同じではない、違いは大きいということです。それはとても羨ましいことで、でもどうすることでもできないことでもあって。
じゃあ私にできることは何かというと、努めて“普通に”過ごすことでした。18トリソミーと聞いて私も動揺しているわけですが、それはあえて隠すことはしませんでした。でもこどもが生まれてくることに対しては、いろんなことを楽しんで見せる、喜んで見せるようにしていました。妊婦健診にはもともといつも同行していましたし、妻が関心をもって調べていることは自分も一緒に読んで、情報も全部共有していました」
一方で、俊輔さん自身は、仕事で物忘れが激しくなることがありミスが頻出していたそうです。当時は自覚していなかったものの、自分が動揺していたことの表れだったのではないかと振り返ります。
俊輔さん:
「仕事の予定がすっかり頭から抜けてしまうことがよくありました。手帳に書いても忘れるんです。考えてみれば、私もけっこう大変だったんだろうな、それは当たり前だなと……。でも当時は自分自身で、それが問題だと捉えられていなくて。特に対処することもありませんでした。こういうときに自分のことに目が向かないのは当然かもしれませんが、人間そうなるものだ、ということを知っているだけでもいいかもしれませんね。職場には状況を伝えていたので、周りの人もそんな自分に配慮してくれていたと思います」
3年後に生まれた長女もともに、一緒に生きている感覚
希さん誕生から3年後、ご夫妻は女の子を迎えました。奇しくもお誕生日は希さんと1日違い。9歳を迎えた娘さんも含め、ご家族の毎日には、当たり前のように希さんの存在があります。
俊輔さん:
「娘は希のことをにいちゃん、にいちゃんと呼んでいて、お仏壇にお菓子をあげたり、さっきもイチゴを供えたんですけど『にいちゃんのとこにあがったイチゴ、ちょうだい』なんて言って食べちゃったりしています(笑)。
娘にとっては、兄の存在は確実に影響を与えていると思います。我々夫婦の中では赤ちゃんの姿のままなんですけど、娘も含めた家族の中ではお兄ちゃんとしてそれなりに頼もしい存在になってるんです。不思議なものですね。忘れるなんてことはあり得ない。一緒に生きていくという感覚でいますね」
希さんが社会的な存在であることを、写真展を通じて実感
希さんを迎え、そして見送った同じ年、俊輔さんは18トリソミーのお子さんたちの写真展を観に訪れました。それをきっかけに、有志で行われている写真展の運営にも関わるようになります。
俊輔さん:
「いろんな成育歴の子がいて、でも自分のこどもの話をしたい、見てほしいという思いは、ある意味みんな一緒なんですよね。自分たちでよく『我が子自慢です』なんて言うんですけど、その姿が体現するものは、本質的な親としての心だと思います。
展示には出さないけれど、写真を手に持って訪れ、話をしていくご家族もいます。年配のご婦人が成人の娘さんに連れられて、「これしか残っていないの」と何十年も前の写真を1枚だけ持っていらしたこともあります。これから生まれるんですという人にもお会いしたことがあります。
18トリソミーの子の写真展に関わっているのは、その親の心を形にすることで、希やいろんなこどもたちが、社会と関わっている、社会的存在であることを示すことになると考えています。
私たちは生まれてくる希に対しては、親として様々な選択をしなければなりませんでした。積極的治療をせず命の力に委ねたことは、本当に正しかったのか、そんな思いがずっと引っかかっていたりします。そういう思いって、すっきりさせられることはないんですよね。でもそれを抱えながら生きていくのが人生だと私は思うんです。これからも、18トリソミーの子と家族に関わっていきながら、希とともに生きていきたいと考えています」
障害のあるお子さんの暮らし
(ダウン症)
障害のある・なしにかかわらず、お子さんは一人ひとり、さまざまな個性があります。
ライフステージに応じてさまざまな福祉サービスや社会資源を活用しながら、お子さんがいきいきと自分らしく生活ができることを目標に、焦らずに育てていきましょう。
ドキュメンタリー動画では、今回は、幼児期、学齢期、成人期におけるダウン症のある方の暮らしや、それぞれの思いについて紹介しています。
MOVIE
ダイジェスト版
ダウン症のあるお子さんの成長や、ご家族との暮らし、学校生活、働く姿など、日常をお伝えします。
※映像の二次利用はお控えください。
乳幼児期
病院で必要な治療を受け、病状が落ち着いたら退院するお子さんの場合も、ご自宅での生活が始まります。ご自宅でも医療的なケアが必要な場合は、訪問看護や居宅介護の利用 、地域の保健師に対する相談もできます。また、保育園やこども園、幼稚園に通うお子さんもいます。その他、身近な地域で発達に心配のあるこどもが通う場として児童発達支援センターや児童発達支援事業もあります。
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学齢期
お子さんの状況や教育的ニーズに合わせて、地域の小中学校・高等学校か特別支援学校に通います。小中学校では、障害のないお子さんと一緒に通常の授業を受ける「通常学級」か、特別な支援が必要なこどもたちの少人数クラス「特別支援学級」のどちらかを選びます。特別支援学校は心身に障害のあるこどもが通学する学校で、幼稚部から高等部まであります。 高校卒業後は大学や専門学校に進学する人もいます。最近では、障害がある人のためのオープンカレッジを開設している大学もあります。
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成人期
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就職
一般の企業で働く方や就労系障害福祉サービスを利用される方がいます。企業には障害のある方に対する合理的配慮の提供義務があり、障害の特性に配慮した、施設整備、援助者の配置などの必要な措置を講じなければならないとされています。就職にあたっては、ハローワークにおいて、障害について専門的な知識をもつ担当者が、仕事に関する情報の提供や就職に関する相談に応じるなど、きめ細かい支援体制を整えています。 また、福祉施策のもとで就労の場の提供を受け、知識や能力の向上のために必要な訓練を行う就労支援サービスを利用して、支援施設や福祉事業所で働く方もいます。 特別支援学校では、職業選択の支援としてさまざまな作業所へのインターン研修など、個々の自立に向けた就労支援が行われています。
プライベートを楽しむ
多くの方がアートやスポーツ、ダンス、音楽などの趣味を楽しんでいます。中には趣味の域を超えて世界を舞台に活躍している方や、知的障害のある方たちのためのスポーツの祭典「スペシャルオリンピックス」に参加している方もいます。 また、外出する際に専門のヘルパーが付き添ってくれるサービスもあります。行動面で目が離せない人は「行動援護」、それ以外の人は「移動支援」といったサービスを利用することができます。
生活の場
大人になり、食事や衣服の着脱、トイレ、入浴など生活の基本動作ができる場合は、親元を離れてグループホームに入所したり、アパートで一人暮らしをしたりする方もいます。将来の自立を見据えて、中学生・高校生の頃からショートステイやレスパイトサービスを試してみるのもよいでしょう。医療的なケアが必要な場合は、介護や援助が必要で自宅での生活が難しい方を対象とした障害者支援施設や、療養介護を利用するという選択肢もあります。もちろん、ご自宅でご家族との暮らしを続けていく方もいます。その場合は、自宅にヘルパーを派遣して入浴やトイレの介助などを行う居宅介護サービスを利用することもできます 。
その他のサポート
お金に関しては、日本年金機構の定める一定の障害基準を満たしていれば20歳から受給できる「障害基礎年金」 や、障害のある人の保護者が掛け金を払い、保護者が亡くなるか重度障害になったときから、障害のある人が月々の年金を受給できる「心身障害者扶養共済制度」などがあります 。また、判断力が乏しく、金銭管理や契約行為などをひとりで行うことが難しい人の権利を守るために、家庭裁判所が定めた後見人が本人に代わって財産管理や契約の代理などを行う「成年後見制度」も利用できます 。
当事者インタビュー①
障害も葛藤もオープンに 繋がりがもたらす情報が道を拓く
元アルペンスキー日本代表で、現在は公益財団法人全日本スキー連盟アルペンチームのセクレタリーを務める須貝未里さんは、スキークロス北京冬季五輪代表の夫・龍さんと、4歳の錬(れん)くん、2歳の心琥(こはく)くん兄弟を育てています。笑顔にあふれる4人家族がどのような軌跡をたどってきたのか、お話を伺いました。
最強の笑顔に「この子が大好きだ」
兄の錬は、とにかく明るくて笑顔が最強です。頑固なところもありますが、最近は優しさも出てきました。弟の心琥はけっこうお調子者。どんどんやんちゃになってきて、いまや怪獣です(笑)。兄弟仲は良く、錬が心琥の着替えを手伝ったり、トイストーリーの人形でアニメのセリフを真似ながらごっこ遊びをしたり。でも、心琥が着ているものを錬が着たくて無理やり脱がせたり、錬が持っているものがほしくて心琥が取り上げたり、喧嘩も多いです。
錬がダウン症と分かったのは、出産2日後くらいでした。人生が終わったかのように落ち込みました。当時はダウン症の知識もなく、この子にはどういうサポートが必要で、育てていく私たちには何が必要なのかもイメージできなかったので、ひたすら「なかったことにしたい」という気持ちでした。
でも錬を見ていると、あくびしたり、むにゃむにゃしたり、泣いたり、どんどん「かわいい」が増えていって、退院して一緒に帰ってきた自宅で、ニコって笑ってくれた顔を見て、「私、この子のこと大好きだ」って心から思ったんです。
ある日、出産のお祝いに来てくれた先輩に「実はこの子、ダウン症の疑いがあって」と話したんです。ダウン症の確定診断が出る前でした。そうしたら、「実は、私のおじさんもダウン症だよ」と、最近の生活の様子やどんなサポートを受けているかを具体的に話してくれました。
よくよく考えてみたら、自分が小学校のとき、同級生の兄弟がダウン症だったことや、課外学習で交流した学校にダウン症の子がいて一緒に遊んだことを思い出しました。先輩から情報をもらったことで、身近にあった経験が蘇り、「生活できそう」と、勝手な自信みたいな感情が湧いてきました。それからは近しい人たちには隠さずダウン症のことを伝えるようになり、気持ちも楽になりました。「こんなことができた」と、錬の成長一つひとつを心から喜べるようになりました。
錬が1歳になるときに、インスタグラムの私のアカウントで「ダウン症の子のママになって1歳です」と投稿したら、一気に同じ境遇の方々との「繋がり」が増えました。同じ悩みを共有し、情報交換もできるようになり、本当にオープンにしてよかったと思っています。
もう一つ、心強い「繋がり」は保育園です。錬が入園する時には、他の子と比べて半年から1年くらい発達が遅れていて心配でした。でも同級生たちはとても自然に「これが錬くん」と受け入れてくれました。錬自身も、同じ年に生まれた子たちと一緒に過ごすことですごく成長しています。多様な子どもたちを保育する先生方は大変なこともあると思うのですが、一緒に過ごす子どもたちの楽しそうな姿を見ることは、私にとってもうれしい瞬間だし、心の支えになっています。
2人目妊娠、不安とうれしさと…
次男の妊娠がわかったのは2021年、錬が2歳のときでした。夫婦で「(錬くんに)弟妹がほしいね」という話はしていましたが、障害や難病のある兄弟姉妹をもつ「きょうだい児」の課題は最近、よくメディアで報じられていたので、私のなかにも不安はありました。
お兄ちゃんがダウン症の子は将来、結婚できるだろうか。学校でいじめられるのでは……。錬に対してもすごく失礼なことを考えたりもしました。たくさん悩んだけれど、やっぱり一緒に育つことで、お互い刺激になって成長できる部分もあると考えました。その頃のメモには、「(妊娠がわかって)うれしかった」と書いてあります。近くのクリニックの検査には、錬と一緒に行きました。兄になることをまだ分かっているわけではないけれど、エコーの写真を指差しながらニコニコしていました。
2人目ができたら出生前検査しようと決めていました。夫も「そのほうがいいと思う」と。クリニックにもそう伝えて、母体血清マーカー検査(クアトロテスト)を受けることにしました。検査結果によっては、より詳しいことがわかる羊水検査を実施できる別の病院を紹介します、ということでした。
長男がダウン症で、私も30歳をすぎていたので、確率は高く出るだろうと事前に言われていました。結果は、(お腹の子がダウン症である確率は)300分の1。295分の1より高いと陽性とされるそうなので、ギリギリです。羊水検査も受けることにして、紹介してもらった病院で、まずは本当に羊水検査を受ける必要があるかどうか、事前のカウンセリングと、詳しい超音波検査を受けることになりました。次男の心臓の病気が見つかったのは、そのときでした。
どうしよう。遠征先の夫とオンライン通話
超音波検査の時間が長くかかっていたので、「しっかり調べてくれているんだな」と思っていたのですが検査が終わると、先生が少し迷っているように「お母さん、心臓が……」と話しはじめたんです。もうそこで私は号泣してしまい、しばらく落ち着くまで、部屋を借りて休ませてもらいました。何が起きているか分からないはずなのに、錬が一生懸命、ニコニコしながら慰めてくれました。
別の病院の小児科で、胎児の心臓をしらべる超音波検査(胎児心エコー)を受ける必要があるということで、数日後に、そこに行くことになりました。当時のメモには「どうしようどうしよう。でも、ひとつ言えるのは、会いたい」と、書いてあります。
お腹の子はすでに18週。だけど私たちは本当にこの子を育てられるだろうか。夫が出場を狙う北京冬季五輪が5ヶ月後に迫っていました。遠征も多い職業ですし、心配をかけたくなくて、夫とは「どうする?」という会話は長くしませんでした。「こういう状況だよ。どうしたい?」と投げかけをして、私は私の中で、彼は彼の中で結論を出して、最後に本当にどうするか、オンライン通話で答え合わせをしました。私は、錬を実家に預けて、検査のために泊まり込んでいた病院近くのホテルから。夫は遠征先から。私が「(赤ちゃんに)会いたい」と思いを伝えると、夫は「会いたい気持ちだけど、産んでくれるのは俺じゃないし、育てる上でも、家にいないことも多いので迷いはある。だけど、生まれてきてほしい」と話してくれました。お互いの「会いたい」が一致したので、産むことに決めました。というか、その時点では無事に生まれてこられるかも分からないので、「会えるように頑張る」と決めました。
検査は確率 決めるのは私たち
数日おきに病院に通ってチェックを受け、ついに2022年1月に帝王切開で赤ちゃんが生まれました。寅年生まれの宝物です。心臓に疾患があること、周りの人たちのいろんな思いを受けて生まれていることから、「心」を大事にしてほしいと「心琥(こはく)」と名付けました。
検査は、あくまでも確率でしかないんですよね。9割の確率で染色体異常があると言われても、1割の確率で「ない」かもしれない。逆に9割は「ない」と言われても、その1割で生まれてくるかもしれない。それを理解した上で、当事者がちゃんと考えて決めることが重要です。私は先生から「検査は確率。どう受け止めるかは、しっかり家族で話し合ってください」と説明していただいたことを感謝しています。
先生は、未来のこともたくさん話してくれました。例えば心琥は、生まれたあとでどんな手術を受けるのか。先生自ら絵を描いて本当に詳しく説明してもらいました。うまくいかない可能性も想定して話してもらったのが心強くて、おかげで前向きになりました。生まれる前から、心琥が2歳になった今の状態まで、当時からイメージできていました。
当事者たちのSNS発信も、とても参考になりました。人それぞれだから、いろんなケースがある。それをリアルに知ることができたおかげで、情報に惑わされずにすみました。障害や疾患をそれぞれの個性ととらえて、こういう暮らしもあるんだなと学ぶことができました。
情報は大事です。不安になることもあるけれど、それも分かった上で自分で決めることが大事だと私は思っています。
私が、「ダウン症児を生みました。2人目の妊娠で出生前検査をしました。そのうえで現在に至る選択をしました」とオープンにしたら、「検査受けるか迷っていたけど、受けることにする。検査が悪いことのようなイメージがあったけど、検査自体はあくまで情報として必要だと思えた」と、友だちから連絡がありました。検査を受ける勇気が出たと言ってもらえて、それが正解なのかを決めるのは私ではないけれど、彼女にとっての正しい判断に繋がったのならよかったなと思っています。
一方で、情報が多すぎて困っている人もいるでしょう。「出生前検査」を検索すると、病院だけでなく、民間の検査機関もたくさん出てきます。値段も全然違う。検査を受けようと考える一人ひとりにとって本当に必要な検査を、どこで、どう受けるべきなのか、指針のようなものが確立されると安心できますよね。
いつか家族全員で雪山に
錬はダウン症、心琥は心疾患、「だからできない」と決めつけないで、どうやったらできるか、いつになったらできるかを考え、とにかく挑戦させることを大事にしたいと思っています。二人がそれぞれ、夢中になれるものを見つけて、夢中になる楽しさと、素晴らしさ、難しさや苦しさも体感してほしい。いつか家族みんなでヨーロッパの雪山に滑りに行くことが夢です。
今までもたくさんサポートしていただき、感謝でいっぱいですが、この先は進学の不安があります。支援学校なのか、支援学級なのか。放課後デイサービスに通えるのか、通えないのか。障害児を受け入れる託児室やシッターさんが限られていることもあり、私の働き方も大きく影響を受けます。でも、私は自分の仕事もしたいんです。彼らが伸びる環境で、子どもたちを支えていくには私自身も自分を高める必要があるし、自分のことも諦めたくない。両立の道を探るには、私自身がしっかりリサーチしなければと思いつつ、様々な形でのサポートがあると心強いです。たとえば県外の仕事も多いので、子どもを連れて仕事に行った際に、そこでの保育所や病児保育サービスを利用できるとうれしいです。助かる方が多くいらっしゃるのではと思います。
この記事を読んでくださった方は、検査を受けるために一生懸命、正しい情報を探して、このウェブサイトにたどり着かれたのだと思います。私は偉そうなことを言える立場ではありませんが、どうか皆さんには、正しい情報を得て、納得した上で自分自身で考えてほしい。正しい情報をもとに自分でしっかり判断したのであれば、必ず「良かった」と思えます。どんな決断をしても、絶対に。これだけはお伝えできたらと思います。
当事者インタビュー②
あえて競争社会の外を選ぶ 全肯定の幸せがそこに
東京・大田区に住む書家の金澤翔子さんは、生後52日でダウン症と診断されました。母・泰子さんの手ほどきで5歳から書に親しみ、二十歳を迎えた2005年に「最初で最後」のつもりで開いた個展がおおきな脚光を浴びて以来、建仁寺(京都市)、 金剛峯寺(和歌山県高野町高野山)、東大寺(奈良市)など名だたる名刹で個展を開催。2012年にはNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を手掛けました。箒ほどの巨大な筆を抱えて、床に敷かれた紙いっぱいに文字を書く席上揮毫(観衆の前での書道パフォーマンス)が人気を博し、全国各地から声がかかります。絶やさぬ笑顔と、エネルギーに満ちた書で人々の心を掴む翔子さんは、ふだん、どんな日々を過ごしているのでしょうか。2022年にオープンした「画廊 翔子」で、母の泰子さんにお話を伺いました。
一人暮らしはもうすぐ10年
翔子は、30歳になった2015年に、この画廊のある古い商店街に小さな部屋を借りて、一人暮らしを始めました。その数年前から、国連本部に招かれたスピーチなどで「30歳になったら一人暮らしします」と繰り返し宣言していました。それで私も覚悟を決めて、二人で住んでいた実家から近いところで部屋を見つけたんです。そうしたら、素晴らしいことがたくさん起きました。
例えば、お友だちができたこと。ひかりちゃんという、芸術系の大学に通っている学生さんです。翔子が学校を卒業したら、もう新しい友だちづくりは無理だと思っていました。知的障がい者の交遊は親が介在しないと無理だと、みんな思っているでしょう。私もそうでした。翔子は、できるという「前例」を作りました。
今日も、ひかりちゃんのお家に、一人で電車に乗って遊びに行くんです。スマートフォンも持っているし、大丈夫。翔子はスケジュール管理が不得意なので、遊びに行きたければまず、私たちに予定の空きを確認します。「この日は大丈夫」となれば、お友だちと約束する。そんな感じで約3年のお付き合いが続いています。
翔子は言葉がスラスラ出ないし、お金の計算も苦手ですが、八百屋さんやお肉屋さんを回って食材を仕入れ、基本的に毎日、自炊しています。行きつけの喫茶店やごはん屋さんもありますよ。自分で街を開拓したの。ご近所のみんなに自分のことを知って理解してもらって、可愛がってもらって。障がい者としての不都合は、もちろん、ありますが、彼女自身は自分を障がい者とは思っていません。可哀そうじゃない。私も、翔子のことを「障がい者」って呼んでほしくありません。
お料理好きだし、私が止めないから体重コントロールは難しいけれど、翔子の一人暮らしは大成功です。
小学生の頃に、こんなことがありました。ある日、一人で通っていた水泳教室からの帰りで電車を乗り間違えて、知らない駅に行ってしまった。学校のお友だちと午後6時に会う約束をしていたけれど、時間になっても来ないからと、みんな心配してくれます。だけど私は「捜さないで、絶対帰ってくるから」と言いました。110番のお世話になるかもしれないことは脳裏をよぎったけれど、捜しに行かずに待ちました。そうしたら、ちゃんと自分で帰ってきました。蒲田という字が読めて、「この電車に乗ればいい」と分かったんですって。4時間遅れで、もう夜10時。ところが、あの子は時間感覚が私たちと違うから、まったく平気なの。嬉しそうにピンポン鳴らして帰ってきました。
こういうときに、もし私が迎えに行ったら、彼女は傷つくと思う。本人は迷子になっている認識はなく、がんばって帰ろうとしているだけだから。きっと帰ってくると信頼して、私は待つんです。迷子になって、誰も頼れる人がいないと、必死で頭を使う。そういう風にして、翔子は生活力をつけてきました。
いまだって、出かけるときに「1人で大丈夫?」なんて聞きません。道順も翔子が考える。携帯で調べてもいい。寒い時期に、ひかりちゃんのお家を訪ねた時は、途中で買い物したスーパーの袋ぶら下げて、鼻垂らして待ち合わせ場所に現れたそうです。「2人で抱き合って泣いたの、もう感動」って、ひかりちゃんが報告してくれました。
地震で決まった覚悟
翔子を産んだとき、私は42歳でした。高齢出産です。生まれてすぐ敗血症と診断され、新生児救急のある別の病院に連れていかれました。帝王切開手術の麻酔から私の意識が戻る前に。会いに行けない間は、母乳を冷凍して届けてもらいました。そして52日目に「ダウン症です」と聞かされて、ベッドの上で、ずるずると力が抜けちゃったのを今でも覚えています。
母親の年齢が上がると、ダウン症の子が生まれる確率が高くなるということを、当時の私は知りませんでした。だから出生前検査を受けようとも思わなかった。通っていた産婦人科クリニックからも何も言われなかった。ダウン症の知識も浅く、「生涯治らない知的障がいで、歩けないかもしれない子を産んでしまった」。そんなふうに考えて悲嘆に暮れていました。
夫は長男。出産直後の私は「金澤家を傷つけてはいけない」と思い悩みました。海外で行方不明になって、死んでしまおうかしら。西日が当たる坂の上で「ベビーカーの手を離しちゃった」って言おうかしら。地震が起きたら「慌てて落としちゃった」って言おうかしら……。そうしたらある日、本当に地震が来て、ピアノの上の花瓶が落ちるぐらい大きく揺れました。私は翔子をぎゅっと抱えて、オロオロと助けちゃった。ああ、死ぬなんて、殺すなんてできない。一緒に生きていくしかないって気づいたんです。
それからは「この子はどうしたら一人で、人に迷惑かけないで生きていけるか」、そればっかり考えていました。彼女を遺していかなくちゃいけない。私たちが死んだ後、自立して生活してくれないと困る。翔子は感受性が強いから、なんでも1人でできるようになったら母親を救えると察したようです。教えてもいないのに、見よう見まねで料理を覚えて。1人暮らしを始めたら、YouTube見て、さらに、いろんなものを作れるようになった。
一緒に住んでいる頃から、翔子が何か作りたいって言ったら、私は絶対、手を出しませんでした。たとえば、パンケーキ作るって言ったら、できあがるまで、誰もキッチンに行っちゃいけないことにするの。途中で見に行ったら、つい手を出したくなるけど、それは本人を傷つけるから。私だって、独りでできるのに途中で手を出されたら嫌ですよ。「できた!」って持ってきたら、「美味しいね」って声をかける。我が子が作ったものはなんだって美味しい。彼女は、ものすごく喜びます。もっともっと美味しいものを作って、喜んでもらおうと、どんどん腕を上げました。
今を生きる 魂の文字
学校に行きなさいとか、お勉強しなさいとか、一度も言ったことがありません。書だって教えたことがない。私自身は姉の影響で習い始めて、10歳(小学校4年)の頃に千葉県で大きな賞をいただきました。私は書道がうまいって思い込んで、ずっと、嫁いでからも書いていました。
翔子が10歳の時、学校に行けなくなりました。地元の小学校から、急に特別支援学校に移るように言われて。お友だちもいるし、歩いて通えている学校から、どうして、知っている子が誰もいない、電車に乗らないといけない学校に移れというのか。私は怒り心頭で、しばらく支援校に行かせませんでした。暇を持て余して、やるせない気持ちをぶつけるように般若心経を書きはじめて、翔子にも書かせることにしたんです。
教えたわけではありません。朱色の墨汁でお手本書いたり、手を添えて書かせたりは、全くしなかった。とにかく書かせては、「線が曲がってる」「なんで曲がるの」と、私は思いをぶつける。翔子は、やめてとか、やりたくないとか、絶対言いませんでした。ただ、ハラハラと泣く。その涙の跡が、半紙に残っています。そういう風にして、5千字、6千字書いているうちに、楷書の基本ができちゃったんです。私を喜ばせたい、救いたいという、翔子の愛です。最高の形で基礎ができちゃいました。
純粋に育ったでしょう?試験も受けないし、一人っ子だし、競争心というものがない。損得がわからないから欲望もない。魂の純度が高いんです。高名なお坊さんたちも、そうおっしゃる。そんな子が書く字には、どんな書家も叶いません。欲望のない心で、ただ、人に喜んでもらいたい一心で書くから。完成した書がどこに飾られるか、なんてことも気にしない。ただひたすら今を生きて、それ字に現れる。
「翔子ちゃんは障がいが軽度だから」と言われることがあります。IQは決して高くありません。2+2をやっと最近、理解しました。2個セットの髪飾りを買うときにね、ニコニコして両手の指を2本ずつ立てて「2たす2は4」と。足し算の仕組みがわかったんですね。目と耳が不自由なヘレン・ケラーが、家庭教師のサリバン先生から「水(ウオーター)」を教わる有名なエピソードを思い出しました。ゆっくりだけど、翔子は進歩しています。IQも低い、言葉も出ない、お金も上手に数えられないけれど、生活力と自信で補って生きている。障がいの重さは、生きていくのにあまり関係ありません。
競争社会にとどまろうとすると、「障がい者」は弾かれてしまう。でも比べることほど、つまらないことはないですよ。翔子を見てください。競争社会の常識の外で生きているから、いつもニコニコして、幸せいっぱい。周りの人さえも幸せにする。私も昔は、翔子はダウン症を悲しんでいると思っていました。私が泣くのを彼女は見ていたし。翔子が21歳ぐらいのときに、思い切って、「ダウン症って何?」と聞いてみました。しばらく考えたあと、答えは「書の上手い人のことを言うのかな」。この子は、悲しんでも嘆いてもいないってわかったの。すごいと思いました。
小学校1年の担任だった女性の若い先生に、「迷惑かけてごめんなさいね」と言ったことがありました。何をやってもビリで、みんなの足を引っ張っていたので。先生は「いいえ、金澤さん、翔子ちゃんがいるとクラスが穏やかになるし、優しい子が増えます」と言ってくれました。その言葉が福音のようでした。翔子は、いていいんだ、ビリという地位があるじゃないかと、初めて、ダウン症をプラスに捉えることができました。
画廊を喫茶店に 自立の道探り続ける
翔子を産んでしばらくは、神様に「(ダウン症を)治して」と祈っていました。それがだんだん、治さなくても「生かして」に変わって、気がついたら「ありがとうございます」になった。今ではもう、平伏して感謝です。本当に幸せになれた。翔子を産んだおかげで、命や人生の根源的なことを考えたうえで、こんな幸せを味わっている。
出産や子育てにはいろんな悩みがありますよね。ただ、翔子を見てほしいなぁ。本当に、幸せを持ってきてくれる子です。できるだけ多くの方に翔子と会っていただきたい一心で、一緒に全国を飛び回っています。個展や席上揮毫は1500回を超えました。ダウン症の子と、その親御さんたちもたくさん来てくれます。「いい子を授かったわね」って声をかけるんです。最近はお母さんたちも前向きで、マイナスなことを話す人はいません。「うちの子にも一人暮らしさせます」という人も。翔子の一番の業績は、書ではなくて一人暮らしの成功ですね。
画廊があるビルの上は住居になっていて、約8年暮らしたマンションから翔子が4階に移りました。私は5階。一人暮らしを貫くべきだと、最初はエレベーターをロックしていましたが、昨年、私は80歳になって、今度は翔子に面倒を見てもらおうかなと。今はお互い、割と自由に行き来しています。1階で、喫茶店を開く予定です。私がいなくなったら、書を続けていくことは難しくなりそうだけど、おそらく喫茶店なら、なんとか自立を続けられるのではと思うんです。これが、私の最後の“挑戦”です。街に育ててもらった子だから、やっぱり街に託して、今度は翔子がこの店で、街の皆さんを「いらっしゃいませ」とお迎えできたらいいねと話しています。
関連サイト
生まれつき病気のあるお子さんとご家族の暮らしについては日本医学会 出生前検査認証制度等運営委員会のウェブサイトでも解説しています。